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日本の伝統食品、というイメージの強い寒天ですが、
いったいいつごろから食べられているのでしょうか。
寒天の歴史を調べてみました。

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寒天の祖先はところてんです。ところてんは、中国から伝わったと 考えられ、奈良時代に記された正倉院の記録に登場しています。平安時代には京都の町で売られていました。江戸時代には、夏の涼味として広く楽しまれていた らしく、江戸の町を売り歩くところてん売りの姿が、「新文字ゑつくし」に写しとられています。

さらに、江戸時代盛んだった俳諧の夏の季語にもなっています。かの松尾芭蕉もところてんを句に詠んでいます。

 

清滝の水汲みよせてところてん

 

この句は、芭蕉が京都 嵯峨野の落柿舎に滞在して『嵯峨日記』を著したころ、詠んだものだと伝えられています。嵯峨野の奥にある渓流の清滝(きよたき)を訪れたときに、その清ら かな水を使ったところてんを賞味したのでしょう。清滝という語感の持つ清涼感が、ところてんの食感をみごとにきわ立たせています。以来、ところてんは夏の 季語となり、蕪村をはじめ、一茶、子規、虚子など、多くの俳人がところてんを季語とした名句を残しています。


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ところてんは渡来食品ですが、寒天は日本生まれです。17世紀半ば、現在の京都市伏見で旅籠屋を営んでいた美濃屋太郎左衛門が発見した と伝えられています。真冬にところてんを戸外に置き忘れたところ、夜中の厳しい寒さで凍り、日中にとけて水分が抜け、また凍ってはとけ、これをくり返すう ちに、ところてんより白く、海藻のにおいも消えて、「寒ざらしのところてん」、寒天が誕生した のです。ちなみに、
寒天の命名者は黄檗宗の開祖、隠元禅師だと いいます。

美濃屋が始めた寒天は角寒天だったようです。細寒 天が誕生したのは18世紀半ば。美濃屋で修行した宮田半兵衛が、郷里(現在の大阪府高槻市)で製造を始め、近隣の農家の副業として広めたと いいます。

寒天は18世紀末には、長崎から中国に向けて輸出されました。以来、細寒天はもっぱら輸出に向けられ、角寒天は国内 向けだったといわれています。

 

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寒天の 製造が本格的になったのは19世紀半ば、長野県で発展しました。長野県の諏訪地方の冬は、低温で晴天日が多く、寒 天生産に最適な気候です。そこで農閑期の副業にと、寒天製造業を興したのが小林 灸左衛門でした。てんぐさの産地から遠いという欠点も、明治末期の鉄道開通で解消され、天候に恵まれて他の土地より長く製造できるメリットを生かして、諏 訪地方の寒天製造は飛躍的に発展しました。

その発展をさらに後押ししたのは海外への輸出です。19世紀末、細菌学者コッホ一門が、細菌の培地に寒天を 推奨したことから、世界中の科学者が使うようになり、海外への輸出が一気に増え、
寒天
は日本の代表的な水産輸出品となったのです。

 

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しかし、第二次世界大戦が始まると、日本は細菌の軍事利用をはば むために、寒天を輸出禁止にしました。そこで困った国々が工業的な製造方法で寒天を作ったのが粉寒天の始まりです。

日本でも戦後、粉寒天の製造が始まり、それまでになかった「アルカリ処理法」と「圧搾脱水法」 による製造方法が考案され、その技術は世界へと広まっています。粉寒天は今や天然を上まわる生 産量を誇り、食品のみならず、鋳型、医薬品、化粧品、バイオテクノロジーの分野にまで活躍しています。食品としても、生活習慣病やがんの予防効果が新たに 評価され、寒天はさらに発展が期待される素材だといえます。

 

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アメリカで売られていますが、実は日本製です。

「かんてんレシピクラブ」 (女子栄養大学出版部)より
豊島区 千川 小菅 陽子主催寒天レシピクラブ